「いっしょにつくる」とは? 現代社会とコ・デザインの可能性

第1回 デザインとは、本来「関わっていく人たち」のもの

日本語で「デザイン」といえば、グラフィック、プロダクト、建築など、目に見える・手に触れられるものを、特別なスキルを持つ人たちがつくる仕事と考えられるのが一般的です。近年ではそれがサービスや体験といった形のないものにも広がり、「デザイン」の意味が再定義されつつあります。しかし、このようにデザイン(された製品)が専門家から利用者へ提供されるようになったのは、人間の歴史でいえばごく最近のことです。
専修大学ネットワーク情報学部 上平崇仁教授は、著書『コ・デザイン デザインすることをみんなの手に』(NTT出版)の中で、人は本来他者とともにつくる生き物であり、それが社会を変えていく力になる、という考え方を示しました。コ・デザインとは何か、そして現代の”デザイン”に関わる私たちはそれをどう捉え、次の時代を考えていけばいいのでしょうか。

デザインの「民主化」とは?
WIT

上平先生はもともとデザインを学び、デザイナーとしてお仕事をなさった後、美術系大学で教えていらっしゃったそうですが、その後、情報学の方向からデザインの研究を始められたのにはどんな理由があったのでしょうか。

上平

ちょうどIT革命と言われた2000年頃、それまでの「プロダクト」や「グラフィック」という言葉では収まらない、情報デザインという分野が生まれてきました。当時は単にデジタルデバイスやインターネットなどのITを使えば情報デザインだと思われているフシもありましたが、徐々に問題意識が整理されて、ユーザ・インタフェース(UI)とか情報設計(IA)といった専門的な知識ができてくると、それは造形の観点だけで解けるような話ではないとわかってきたんです。

WIT

ソフトとハード、データベースとUIのように、デザイナーひとりで何かを変えることが難しくなったわけですね。

上平

はい。どんどん学際的になっていく状況の変化を感じて、2004年に情報学部へ移ったんです。その頃、デザインはいずれ民主化されていくだろうという予感を持ちました。

WIT

デザインの民主化、ですか?

上平

はい。だいぶ抽象的な話になりますが、近代になって成立した資本主義社会の中で、デザインはビジネスを促進する要素、いわば消費を生み出すための仕掛けとして利用されてきたことを指摘できるでしょう。その結果、世の中に「消費者」が誕生し、消費者にとってデザインは一部の専門家が「授けてくれる」ものとして意味づけられていくことになります。自分にはセンスがないからデザインできない、という考え方は今でも根強いですよね。「つくる」側と「つかう側」が分断されて、お互いにとって都合のいい共犯的な関係が出来上がっていったわけです。

WIT

なるほど。それに対して書籍で紹介されたデンマークのゴミ箱の事例などは、日頃使っている人たちの視点を取り入れた民主的な行為といえますね。デポジット対象の缶やボトルを捨てる際に、分別されていないゴミ箱の中に入れず、脇に取り付けた小さな棚に置いて「贈りもの」に変えることで、貧しい人が缶を集める際にゴミ箱に手を突っ込まなくていいようにするというアイデアでした。

上平

単に缶を「拾いやすくする」ことではなく、「人としての尊厳を守る」ことが評価されていました。私たちの社会では見ない発想ですよね。実際に使っている側が感じている違和感をもとに、小さな提案を試してみようとする姿勢は、何事でも本来はそうあるべきです。そうやって中にいる人々が自分たちで考えて何かのありかたを変えていくこと、誰かに授けられたものを買うのではなく、関わっている人たち自身が主体的にデザインを行っていくことが「デザインの民主化」だと考えています。

WIT

でも、最近はUXデザインや人間中心設計のように、より「つかう」人の視点でデザインする考え方が広まっていますよね。

上平

そうですね。過去にデザインを研究してきた人たちによって、デザインは「問題の発見と問題の解決」、あるいは「意味を与えること」などのように説明されています(*)。決してつくり手だけで成り立つものではないですから、「つかう」側に近づこうとするのは近年では一般的になっていますね。
しかし、もともと「ユーザー」という言葉は、システムに関与しない(できない)役割の人に割り当てられた用語です。事業者がそのような存在として位置づけたい場合にはそれで構わないのかもしれません。でも、例えば地方の人々がまちづくりに関わる場合のように、主体的に学びながら「システム自体を変化させていく存在」だと捉えた場合には、違うデザインのアプローチが必要なのではないでしょうか。

*ハーバート・サイモン『システムの科学』稲葉元吉、吉原英樹 訳、パーソナルメディア、 1999年
クラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』小林昭世 他 訳、エスアイビーアクセス、 2009年
ロベルト・ベルガンティ『デザイン・ドリブン・イノベーション 』佐藤典司、岩谷昌樹、八重樫文、立命館大学経営学部DML訳、同友館、 2012年

人はともにつくる生き物だった
WIT

コ・デザインとは、どんな背景から生まれてきたものなのでしょうか?

上平

いくつかの過去の流れに影響を受けていますが、直接的なものとしては、1970年代に北欧で起きた労働争議をきっかけにした「参加型デザイン(Participatory Design)」という運動が挙げられます。工場の生産性向上のためにオートメーション化が進む中、労働者が自分たちの働く場所に関する意思決定に参加する権利を求め、経営者側との対立が起きたのです。
その時、双方の主張を取り入れた上でお互いにとって理想的な環境をつくれるはずだと、対話を起こし、参加を促す仕組みをつくっていったのがデザイナーでした。これがヨーロッパで評価され、のちに人間中心デザインの源流にもなっていったという歴史があります。もともとは社会民主主義のマインドの強い北欧の国々で始まった活動です。

WIT

UXデザインのような開発メソッド的なものかと思っていたのですが、もっと社会運動的な話だったんですね。

上平

はい、むしろデザイン業務の前提を壊すような活動です。

WIT

ただ、社会的・政治的な文脈があると考えると、ちょっとハードルが高い気がします。

上平

日本人にはそんな傾向がありますね。私たちは身内ではない他者との利害調整のやりかたをほとんど学んできていません。なので、私自身は、参加型デザインのように政治性を全面に出す必要はなくて、「学習共同体」のような見方や活かし方もあり得るのではないかと考えています。

WIT

学習共同体とは、どんなものですか?

上平

有名な例としてアフリカのテーラー(仕立て屋)の話があります。洋服をつくる工房では、親方が中央にいて、新入りは一番外側から入って掃除から始めるんですね。掃除するには仕事場全体を見渡して観察しなくてはなりません。みんなのゴミを集めたりするうちに各工程の意味や全体の流れが見えてきます。そこから徐々にボタン付けやアイロンがけなどの簡単な仕事へ、そして裁断などの後戻りが効かない難易度の高い仕事へとステップアップし、だんだん仕事場の真ん中に、つまり実践する共同体の中心人物になっていきます。そこに参加していくプロセスそのものが学習になっているわけです。

WIT

なるほど。つくること自体が学びの場になっているんですね。コ・デザインも、実践と同時に学習する共同体ととらえれば、多様な人々が学び合って変化が起こるということですね。ワークショップやコミュニティ的な活動と考えると、入りやすいかもしれません。

上平

いわゆる政治ほど身構えない関わり方ができそうですよね。こうしたかたちで、私たちはさまざまな異なる能力を貸し借りして一緒にものごとを成しとげていく力をほんらいは普通に持っているんです。今の人類は、身体能力は弱くても協力しあったからこそ生き延びることができた生き物です。みんなでつくることは、本当は全然特別なことではありません。むしろ専門家だけにまかせてしまっている現代の方が特異なんじゃないでしょうか。

デザインの民主化、「つくる」と「つかう」を分断しない、学習共同体…。コ・デザインの輪郭がだんだんとつかめてきたのではないでしょうか。次回は、実際にコ・デザインでものをつくるとどんなことが起きるのか、具体的な事例から探ります。

上平崇仁(かみひらたかひと)さん
専修大学ネットワーク情報学部教授
筑波大学大学院芸術研究科デザイン専攻修了後、グラフィックデザイナー、東京工芸大学芸術学部助手を経て、2000年より情報デザインの研究・教育に取り組む。著書に『コ・デザイン デザインすることをみんなの手に』(2020年12月/NTT出版)。